2011年05月09日

子どもの成長にとっての避難所生活というリスク

「子どもの貧困」(阿部彩著)を読んでいて、考えさせられる記述がありました。

同書によると、子どもの成長には、多種多様な「経路」が影響を与えていると
考えられているとあります。

特に、所得の影響(所得効果)は、アメリカの研究では検証されているようですが、
その他にも、「栄養」、「家庭環境」、「親のストレス」、「学習資源の不足」、
「住居の問題」、「親の就労状況」など、いくつかの「経路」が複雑に絡み合って
子どもの成長に影響を与えるというのが通説のようです。

なるほど、そうだよな、と思った瞬間、ふと凍りつくような感覚に襲われました。

ここに挙げられている子どもの成長に影響を与える「経路」は、
ほぼ全て避難所で生活を送る子どもたちが曝されているリスクとオーバーラップ
するのではないか。

避難所生活者の相当の割合は仕事を失っている。
避難所の中は集中して学習できる環境にない。
塾や家庭教師などの教育投資を行なえる状況でもない。
ストレスで子どもに対して十分なケアをできない親もいるだろうし、
場合によっては栄養も偏っているかもしれない。

改めて、避難所生活というある種不可避の出来事が
子どもの成長に与える影響の大きさを突きつけられたような気がします。

同時に、そういったリスクを最小限にとどめるためにアスイクの活動が
どれだけ重要かを再認識させられるのです。


posted by NPO法人アスイク at 23:41 | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月07日

コンセプトの大切さ

アスイクの活動に参加するボランティアが増えるにつれ、
そしてボランティアの自律的な行動が増えるにつれ、
組織のコンセプトを明確にすること、伝えることの大切さを実感しています。

たとえ「学習サポート」という言葉を掲げていても、
現場で活動するボランティアにとって判断に迷うような場面が生じている。

たとえば、途中から飽きて遊びまわる子どもにどう対処したらいいのか。
子どもを叱ってでも、勉強に引き戻すべきなのか。

あるいは、どこまでが子どもとの関係性を築くためのコミュニケーションで、
どこからが活動の趣旨から外れた遊びとなってしまうのか。

活動のコンセプトを明確にし、そして活動に関わるみんなで共有しなければ、
いずれはそれぞれの捉え方でてんでバラバラに行動し、ひいてはアスイクとは
何のために存在する組織なのかが分からなくなっていくリスクがあります。

今一度明確にしたいことは、次のことです。

避難所での学習サポートという活動において、アスイクが対処するニーズは、
フツウの生活を送る子どもたちと比べて、学習面で遅れたくないという
保護者や子どもの焦りや不安です。

避難所によっては、勉強できる環境でないところが数多くあります。
たとえば、夜の9時に消灯してしまう避難所もあるし、
避難所の中が騒がしくて勉強に集中できないという場合もある。
また、これまで通っていた学習塾に通えなくない状態にある生徒もいるし、
必要な教材などがなくて自分で勉強できない生徒もいる。

そのような状況に対して、できるだけ柔軟に生徒たちの状況に合わせて、
学習面での遅れを最小限にとどめ、彼ら彼女らの進路が閉ざされないように
支援することが、避難所での活動におけるアスイクの提供価値です。

結果的に、生徒たちの張り詰めた気持ちを解きほぐす効果もあるでしょう。
しかし、それはあくまで結果的にであり、そのことだけを目的として
子どもと接するのは、別の専門的な団体の役割であると思います。

今日の石巻での活動でも、ある中学2年生のお祖父さんがのぞきに来て、
こんなことを言ったそうです。

「孫は○○高校に入りたがっていた。だけど、こんな状況なので○○高校には
入れないかもしれないと心配だった」

このような対処すべきニーズと提供すべき価値を踏まえた上で、
サポーターがそれぞれの創意工夫をこらして生徒たちと接し、その試行錯誤の
結果をサポーター同士で共有して欲しいのです。
posted by NPO法人アスイク at 21:25 | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月25日

なぜ、子どもは笑顔で勉強に参加したのか?

これまでの活動を通して、本能的に勉強というものを愛する子どもたちの
姿を見てきました。

「私も勉強していい?」と聞いてきて、「もちろんいいよ」と答えたときに
嬉しそうに抱きついてきた女の子。

読み聞かせのボランティアと時間がバッティングしたときに、「やりたい方
に参加していいよ」といった途端、アスイクの活動に群がってきた子どもたち。

学習サポートが終わった後すぐさま教材を床に広げ、「来週までに全部やっとく
からさ」と得意気に言い、本当に次の週までに全部やり遂げた男の子。

もしかすると、彼ら彼女らは勉強がしたかったのではなく、
学習サポーターの大学生たちと触れ合いたかったのかもしれません。

しかし、教育というものを、生徒と教師の関係性までを含んだものとするならば、
やはり彼ら彼女らは、勉強(教育という表現がよりマッチするかもしれません)
が本能的に好きなのだと思います。

そんなことを考えていたら、内田樹さんの『街場の教育論』の中に、
こんな言葉を見つけました。

(教育の必須条件は何かという問いに、無人島で教師と生徒だけがいるという仮定を用いて)

『教育をしたいという情熱と、教育を受けたいという欲望は、無人島であっても
おそらく変わらない。むしろ、無人島だからこそ学ぶことを切望する子どももきっと
出てくると思います。

それは教育の本質が「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるの
とは違う人たち」との回路を穿つことにあるからです。「外部」との通路を開くこと
だからです。

勉強をしているときには、子どもたちも一瞬、無人島という有限の空間に閉じ込め
られていることを忘れて、広い世界に繋がっているような開放感を覚える。
四方を壁で取り囲まれた密室の中に、どこからか新鮮な風が吹き込んできたかのような
爽快感を覚える。そういうことがきっとあるはずです。

「今ここにあるもの」とは違うものにつながること。それが教育というものの一番
重要な機能なのです。』 (「街場の教育論」p40)

私は、この文章を読んだとき、自分が感覚的に抱いていたものに、
言葉という明確な形を与えられたような気分になりました。

避難所で子どもたちが見せた笑顔は、まさにこういうことではないかと思うのです。

避難所と無人島という環境が、見事にオーバーラップしますが、
避難所という限定されたものよりも、もっと巨大で曖昧な不安感といった方が
近いかもしれません。

そういった手に負えないくらい巨大で曖昧な不安感を漠然と感じている、
あるいは近くの大人たちを通して感じ取っている子どもたちが、
学習サポーターという教師と教材を通して触れ合う中で、わずかかもしれませんが、
教育による爽快感、開放感を得られたのではないでしょうか。

もしかすると、内田さんの論旨を都合よく読み替えてしまっているのかもしれません。
自分たちの活動の意義を、過大評価している可能性すらあります。

しかし、私自身も内田さんの言葉を読んだとき、「そうだったんだ!」という
爽快感や開放感と出会ったことは間違いのない事実です。
posted by NPO法人アスイク at 22:16 | オピニオン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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