これまでの活動を通して、本能的に勉強というものを愛する子どもたちの
姿を見てきました。
「私も勉強していい?」と聞いてきて、「もちろんいいよ」と答えたときに
嬉しそうに抱きついてきた女の子。
読み聞かせのボランティアと時間がバッティングしたときに、「やりたい方
に参加していいよ」といった途端、アスイクの活動に群がってきた子どもたち。
学習サポートが終わった後すぐさま教材を床に広げ、「来週までに全部やっとく
からさ」と得意気に言い、本当に次の週までに全部やり遂げた男の子。
もしかすると、彼ら彼女らは勉強がしたかったのではなく、
学習サポーターの大学生たちと触れ合いたかったのかもしれません。
しかし、教育というものを、生徒と教師の関係性までを含んだものとするならば、
やはり彼ら彼女らは、勉強(教育という表現がよりマッチするかもしれません)
が本能的に好きなのだと思います。
そんなことを考えていたら、内田樹さんの『街場の教育論』の中に、
こんな言葉を見つけました。
(教育の必須条件は何かという問いに、無人島で教師と生徒だけがいるという仮定を用いて)
『教育をしたいという情熱と、教育を受けたいという欲望は、無人島であっても
おそらく変わらない。むしろ、無人島だからこそ学ぶことを切望する子どももきっと
出てくると思います。
それは教育の本質が「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるの
とは違う人たち」との回路を穿つことにあるからです。「外部」との通路を開くこと
だからです。
勉強をしているときには、子どもたちも一瞬、無人島という有限の空間に閉じ込め
られていることを忘れて、広い世界に繋がっているような開放感を覚える。
四方を壁で取り囲まれた密室の中に、どこからか新鮮な風が吹き込んできたかのような
爽快感を覚える。そういうことがきっとあるはずです。
「今ここにあるもの」とは違うものにつながること。それが教育というものの一番
重要な機能なのです。』 (「街場の教育論」p40)
私は、この文章を読んだとき、自分が感覚的に抱いていたものに、
言葉という明確な形を与えられたような気分になりました。
避難所で子どもたちが見せた笑顔は、まさにこういうことではないかと思うのです。
避難所と無人島という環境が、見事にオーバーラップしますが、
避難所という限定されたものよりも、もっと巨大で曖昧な不安感といった方が
近いかもしれません。
そういった手に負えないくらい巨大で曖昧な不安感を漠然と感じている、
あるいは近くの大人たちを通して感じ取っている子どもたちが、
学習サポーターという教師と教材を通して触れ合う中で、わずかかもしれませんが、
教育による爽快感、開放感を得られたのではないでしょうか。
もしかすると、内田さんの論旨を都合よく読み替えてしまっているのかもしれません。
自分たちの活動の意義を、過大評価している可能性すらあります。
しかし、私自身も内田さんの言葉を読んだとき、「そうだったんだ!」という
爽快感や開放感と出会ったことは間違いのない事実です。